電気と保安 2015年 冬季号 Vol.260 東北電気保安協会
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上じょう戸こ頭首工(水を引入れる施設)新安積幹線トンネルの内部4石岡:労働力の面では、どういう状況だったのでしょうか。本田:疏水の基本は、水路を開発して水利のいい大地をつくるということですが、安積疏水は、不毛の大地だった安積原野の開墾という課題がありました。疏水事業の着工に先立って、明治6年に二本松藩士が入植し、開墾が始められていました。当時、多くの士族の生活が困窮を極め、士族救済は国策として極めて重要な課題であったかと思います。安積開拓には、久留米や高知など全国9藩から2,000人の士族が入植しますが、工事は、山田寅吉がフランスの規則を参考とした“請負及び入札の規則”や労務管理により、全国から集まった多くの労働者の綱紀粛正が図られ、これだけの工事にかかわらず2名の殉職者しか出さなかったそうです。石岡:先ほど、事業の成就には開拓事業者 中條政恒の存在が大きかったとの指摘がありました。中條政恒とは、どのような人物だったのでしょうか。本田:安積開拓、安積疏水の構想を、郡山に訪れた大久保利通に訴えたのが、福島県の役人中條政恒です。彼は安積開拓の父とも呼ばれる元米沢藩士で、藩に蝦夷開拓を建言したこともある、開拓事業に情熱をもって取り組んでいた人です。ロシアなどに侵略されないように、北海道を開拓して日本の国を守らなければならないと考えていたようです。安積疏水事業に先立って行われた県による開墾事業もこの中條政恒の進言によるものでした。石岡:猪苗代湖の水は全部日本海側に流れていたものを何分の1かをこちらに流すようになったということだと思いますが、どれくらいの割合になりますか?本田:12%です。猪苗代湖の面積が約100㎢ですので1cmで100万トンになります。1cm、100万トンあれば1万ヘクタールの田んぼに水を1cm分張れるということになります。石岡:今までお話しいただいた、こうした明治日本の地域開発という大きなテーマの中で、とてつもなく大きな役割を果たした安積疏水。そしてその安積疏水を守り、管理運用しているのが土地改良区さまの事業ということになると思いますが、「疏水の礎は水」という事業の理念について、水に対する感謝の気持ちが伝わってくるような印象をもちました。どんな思いが込められているのでしょうか。本田:古来利水に恵まれず蒼茫とした安積原野に猪苗代湖の水を導水し、実り豊かな大地に変貌させてくれたのは大久保利通です。その恩返しの思いも込めて、郡山市安積町牛庭地区の人々は、大久保神社を建立し大久保利通を祀っています。また、郡山市熱海町にある安積疏水神社では、伊藤博文と大久保利通を合 この開墾があったからこそ、後の広大な安積開墾に結びついたということです。そして安積疏水によって、原野が徐々に一大穀倉地帯に生まれ変わっていきました。安積疏水の歴史を伝えていく

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